9.田舎の人々とともに

 都とは比べものにならない荒れ果てた風土の中、親鸞聖人は民衆と向かい合います。そこで出会った人びとは、富や権力とは無縁に、人間の命を赤裸々に生きている人達でした。そこには、善根を積むどころか、生き延びるためには、たとえ悪事とされていることでも、あえて行わなければならない悲しさをかかえた人びとの生活がありました。

親鸞 「この地の人びとの生活は、私の想像を遙かに超えるものだった」
恵信 「されど、あの人たちにこそ、阿弥陀如来の本願はかけられているのですよね」
親鸞 「ああ、そうだとも。私の確信はさらに深まった。しかし、念仏をどのようにして、この人たちの生活の上に開いていけばよいものか」
恵信 「よい手立てなど思案してもしょうがないでしょう」
親鸞 「そうだな。私とて、人を導く資格もない愚かな身。共に生き、共に念仏する。ただそれだけだ」

 親鸞聖人は民衆に飛び込み、共に土にまみれ、共に語り合いました。そこから、初め二つだった念仏の声が、三つになり、四つになり、やがて越後に念仏の声が広がっていきました。

 越後へ流されて5年、親鸞聖人に赦免の知らせがもたらされます。それから数ヶ月後、今度は法然上人が亡くなられた知らせが届きます。

親鸞 「なんと…」
恵信 「もう一度、お上人様にお会いしとうございました」
親鸞 「師のおられぬ京の都に、今は未練など無い。」
親鸞 「越後に念仏の花は咲いた。どうであろう。他の地にも、念仏の教えを待ちわびている人びとがいると思うのだが」
恵信 「常陸の国に、私の実家・三善家の所領がございます。まずは、そちらを足がかりとされてはいかがでございましょう」
親鸞 「うむ…」

 こうして、親鸞聖人は家族を伴い、関東へと旅立ちます。聖人42歳のときでした。
 当時関東は、鎌倉幕府が開かれたことにより、開拓の熱気につつまれた新天地ともいえる土地でした。