本誓寺

本誓寺

 本誓寺の起源は古く、「建保元年(1213) 宗祖見真大師親鸞聖人革創にして、その直弟子是信房の授与の古刹なり」とある。

 平家没落によって越前城主位の座を追われ、流人となった大納言薩摩守時忠が、越後国柏崎に居住していた時に、「承元の法難」によって越後に流罪中だった聖人の法席に偶然遇い、すみやかに俗衣を脱ぎ、是信房と名乗った。是信房は聖人と常に行動を共にし、善光寺にも聖人と共に参詣、各地の教化にも同行した。その時、埴科郡倉科村藤原山上の寺(天台宗)を改宗して本誓寺と号したのが始まりである。

 聖人には24 人の高弟がおり、各々が開基の聖人ゆかりの寺があるが、本誓寺はその第10 番にあたる。

 是信房はその後、建保3年(1215)聖人の命により、奥州に下り斯萱郡石ヶ森(岩手県盛岡市)に一寺を建立して同じく本誓寺と号したので、現在長野県と岩手県に一寺ずつ存在する。

 是信房は聖人が90歳で入滅した後、文永3年(1266)に亡くなった。その後も本誓寺は4 代目から新田義貞の末男義四郎貞重が入り、以後「新田」姓を名乗り繁栄した。そのため宝物も多く残っている。

瀬踏(せぶみ)阿弥陀如来(宗祖聖人作 善光寺如来一体分身)

 聖人40歳善光寺に入り念仏を弘めたまうとき、4月15日夜善光寺如来夢枕に立ち、「我無縁の大悲を以って三国に伝来し殊に有縁の日域に跡を留むといえど真実の利を恵む由なし、汝悲願の実意を明らめ、濁世の群萌を導きて解脱の途に就かしむ誠に出世の本懐に足りぬ支証のため我を刻むべし」と、聖人歓喜してこれを刻み笈(おい)の御安置佛とす。

 聖人が千曲川を渡ろうとしていたとき、前日からの大雨で増水していた。向こう岸へ渡る舟便も途絶え途方に暮れていると、どこからともなく容貌瑞厳な童子が現れた。聞くと、先立ちになって水上を渡るという。半信半疑ながら童子の後に続くと難なく向こう岸に辿り着いた。途端童子の姿は笈の中に消え失せてしまった。

 善光寺如来は濁世煩悩の波浪を越え、一切衆生を真実報土に到らしめる大悲から、まず聖人を導き、瀬踏みの奇瑞を現し給うたのであろう。

 瀬踏阿弥陀如来は正月三が日のみ開扉される秘仏であるから、平常は写真のように分身が安置されている。

日の丸御名号(宗祖聖人筆)

日の丸名号 聖人が関東での25年間の教導を終えられ、京都に向かおうとされた時、二見浦まで足を運び東天より昇ろうとする日輪を合掌された。その時、日輪中にありありと「南無西方極楽世界無碍光仏」と拝された。それを記念した筆蹟である。

 また石山合戦の時、織田信長と戦う旗印として顕如上人が使用したとも伝えられている。

落涙之太子像(宗祖聖人輔作)

 建保元年(1213)に聖人が倉科の天台宗藤原寺に一夜の宿をされていた時、聖徳太子の首だけが彫刻されているのを発見する。いたたまれなくなった聖人は、念仏を読誦しつつ自ら太子の御体を刻まれた。

 本誓寺2 代親昭房の時、太子像が夢枕に立ち涙を流しながら聖人の臨終が近いことを告げられたという伝説がある。

真向左上之御影(宗祖聖人筆)

 弘長2年(1262)11月20日夜のこと、本堂に安置されていた落涙之太子像が本誓寺2 代の親昭房へ聖人の病気を告げられ、両の眼より涙を流された。親昭房は大いに驚き、直ちに京都の聖人の元へ向かった。ようやく26日に到着するとすぐに聖人に面会し、「御病気御見舞の到着」と申し上げたところ、「それより汝後生の一大事如何」と叱られてしまう。

 聖人は「親昭房よ直ちに信濃に帰れ、汝一人国に帰るべからず、この親鸞もともとも信濃に参るべし」そう仰られて、やつれた姿を自ら写し、「病みし子を 残して帰る 旅の空 心はここに 停りこそすれ」と歌も記入して親昭房に授けられた。親昭房はもはや申し上げる言葉もなく、御影を拝領して帰るその途中で聖人の入滅を知った。形見の御真影とも云う。

真俗二諦木像(宗祖聖人作)

 聖人が稲田の草庵に滞在されていた時、本誓寺2 代の親昭房が請うて拝領した蓄髪染衣の木像。

〈『本誓寺物語』参照〉