浄興寺

浄興寺

 浄興寺は、浄土真宗の開宗にゆかりの深い寺である。聖人の上越滞在7年の後、妻子と共に常陸国(茨城県)へ移り、笠間郡稲田郷(笠間市稲田町)に稲田禅坊を開いた。聖人は農民や下層武士を主とする民衆に布教するとともに、自己の信仰を深め、真宗の根本聖典である『教行信証』(草稿本)を著した。

 聖人は52 歳のとき、京都に戻るにあたって弟子の善性にこの禅坊を歓喜踊躍山浄土真宗興行寺、略して浄興寺と名づけ山額を与え、住職を譲った。

内陣 聖人は浄興寺にとどまるところ10 余年、その後、京都へ帰り弘長2年(1262)90歳で入滅した。聖人の御頂骨ならびに遺宝物は御遺命に従い、浄興寺第二世善性(後鳥羽天皇皇子)によって稲田浄興寺に安置された。

 後に稲田浄興寺は戦火をうけて灰燼となり、寺領のある信濃国水内郡太田庄長沼へ移った。以後およそ300年長沼にあったが永禄4年(1561)年川中島合戦の兵火をあびて堂宇炎上し、永禄10年(1567)上杉謙信の招きにより春日山城下に移り、堂宇を建立し上杉家の紋章を拝領した。慶長12年(1607)上杉家会津移封のあとをうけた堀氏が福島(上越市古城)に築城すると福島城下へ転じ、さらに松平忠輝の高田築城と共に高田へ移り、寛文5年(1665)の地震により堂宇崩壊したので、時の藩主松平光長の市街復興計画に従い現在の地に堂宇建立し 300余年の年月を経て、現在に至る。

本廟 本堂は、間口29メートルにおよび、入母屋造りで県下最大規模の真宗寺院建築で、平成元年(1989)9月に国の重要文化財に指定された。9 年間をかけた大修理が平成16年(2004)5月に完成し、江戸末期の頃の姿が蘇る。宝物館には、県や市の指定文化財などが多く展示されている。また境内地にある本廟には、第3 代覚如上人から第20 代達如上人までが納められている。

真宗他派との関係

 文禄元年(1592)聖人の頂骨を本願寺(現在の西本願寺)に分骨。本願寺の東西分派に際して東本願寺に組し、東本願寺より「同格一門」の待遇を受ける。後に「中本山」の格式を認められる。万治3年(1660)聖人の頂骨及び本願寺3 代覚如上人以下7代の門主の頂骨を東本願寺に分骨する。享保7年(1722)高田掛所(現在の真宗大谷派高田別院)設置を機に東本願寺との対立が表面化し、享保年間末には「同格一門」の待遇を剥奪される。明治9年(1876)には、真宗四派による「宗規網領」によって、「中本山」の格式を否定される。明治27年(1894)、宗教法人法の施行によって東本願寺からの独立となる。

浄興寺HP参照〉