さて、親鸞聖人が法然上人の門弟になった時期、専修念仏は燎原の火のように燃え広がっていました。名もない庶民だけでなく、多くの僧、武家、貴族が念仏の教えに帰依しました。
関白・九条兼実もその一人であり、法然上人が著わした『選択本願念仏集』は兼実の求めに応じて書かれたものです。
しかし、これまでの話で分かるように、仏教に革新をもたらした専修念仏の教えは、これまでの常識に縛られる者には理解しがたく、ときに教えの真髄を誤って受け取る者もありました。
よって念仏の教えを邪教とみなし、また、その流行を無視できなくなった旧仏教界は、自らを脅かす存在として、専修念仏の弾圧に乗り出したのです。
僧兵 「専修念仏、許すまじ!」「オーッ!」
比叡山からの批判をうけ、法然上人は『七カ条制誡』という起請文をしたため、弟子たちに署名させ、余計な摩擦を起こさぬよう諫めます。
親鸞 「口惜しや、何故、私たちがこのようなことを」
法然 「慎みなさい。争っても念仏の教えのためにはならぬ」
しかし、専修念仏弾圧の手は弛められることはなく、奈良・興福寺より『興福寺奏状』として専修念仏を禁止する訴えが朝廷に出されるに至り、ことは政治を巻き込む大問題に発展していきます。
そして、これからむかえる承元(じょうげん)の法難は、親鸞聖人の生涯に決定的な影響を与えることとなるのでした。